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フイリピンでの手記
土橋 義知 2014/08/30 22:20:11
上杉様
突然メールします、先日友人から 親族とか誰も居ない人の「私の歩んだ途」を預かり
ました、書いた人は 「許斐 俊彦 このみ としひこさん」です。
軍歴は 南方軍総司令部南方軍築城部 勤務でした、記録の中にマニラ、ボントック、
マニラ中心部、バギオ、での戦闘移動の手書きの地図、捕虜収容所で食事袋等に書いた食事内容とか、色々書いてあります。
上杉さんと交流が在ったかもです、それ故、この書類読んで頂くとか、保管お願いしたいのです。

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書き込みテスト
マリオ 2014/04/17 20:30:31
書き込めるかどうかのテストです。

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Re: バギオ
上杉俊直 2009/08/16 08:36:33
奥田正博様

昨日は失礼しました。
タイトルをバギオ日本人会奥田正博様へと書いたつもりでしたが、バギオの3字となっていました。

私どもの中隊は名古屋師団工兵で、バギオからボントックに至る戦線で半分以上が亡くなってしまいました。
生き残って帰還した者達で「バギオ戦友会、慰霊碑」を造って毎年4月にお参りに行っております。
しかし、皆90歳以上で参加者は少なくなってしまいました。

私のメールアドレスは
t-uesugi@mub.biglobe.ne.jp  です。

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バギオ
上杉俊直 2009/08/15 15:04:30
私の「わが戦記」をお読み下さいまして有難うございます。

バギオ市との共同プロジェクトで第二次大戦中日本軍が掘った防空壕を公開されるそうですが、私は工事指揮官の中隊長ではありましたがバギオ市に於けるその位置はよく知っていないのです。

只これだけは覚えております。高さ10M位の山をくり貫いて大防空壕を掘ったのです、

防空壕全体の長さは全体で120M位で、横に30Mくらいの横坑その右端に横坑を挟んで南から30Mの横坑、北から20Mくらいの入口、横坑の左には20Mくらいの入口とその北の方に20M位の入口を作ったと思います。(長さと方向はうろ覚えですから概略です)
南の入口から20M位のところに6畳くらいの部屋を4っ作りました。
山下大将は上の官邸が爆撃でやられたのでこの6畳の部屋に入ってこられました。

坑道の構造は横1,8M 高さ2Mで杉材の下木、縦柱、天井は頂板でした。

わが部隊は、この防空壕に1945年の1月から4月までいて、その後はバナウエ方向へ転進したですから、防空壕の中にあったという道具、爆薬、手榴弾、鉄砲の弾等はその後に入っていた、他部隊のものだと思われます。

なおバギオにいた当時トリニダッドの山下さん(熊本県八代の人)には大変お世話になりました。ご尊命でございましたらどうぞよろしくお伝え下さい。

バギオ周辺で亡くなった方々の慰霊のために慰霊碑を健立していただき感謝いたします。

役に立つことがあったら又メールをいたします。
今後ともよろしくお願いします。

      上杉俊直

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初めまして
奥田正博 2009/08/15 00:01:23
初めまして。突然のメールで失礼致します。私はバギオ日本人会の奥田正博と申します。
さて、今年はバギオ市制100周年にあたり、9月1日のバギオ市制記念日には多くの記念行事が行われます。
昨年より、バギオ植物公園にございます、第二次世界大戦中に掘られたとされる旧日本軍のトンネルを、戦後今まで全く手をつけていなかった状態を今回のバギオ市との共同プロジェクトにより、一般公開の運びとなりました。そのトンネルには多くの土が堆積しており、復元するために、通路や幾つかの部屋を掘リ下げたところ、当時使っていた道具、爆弾、手榴弾、鉄砲の弾等が発見されました。
また、その付近に日本庭園を設立し、バギオ周辺でなくなった方々を慰霊するため、慰霊碑も建立しました。
貴殿の体験談を拝読させて頂き、そのトンネルではないかと思い、ご連絡させて頂きました。
ご連絡頂ければ幸いです。
宜しくお願い申し上げます。

バギオ日本人会
会長 奥田正博

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ルソン島の戦闘から63年経ちました
上杉俊直 2007/07/05 08:47:28
伸京さん、ルソン島での戦跡を読んでいただいてありがとうございます。
あの戦いから、早63年の歳月が流れました。運よく帰還された方も、もう数が少なくなりました。

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ブログの方からお邪魔します
伸京 2007/07/01 23:17:37
ナオさん、こんばんは。始めてブログを拝見しました頃、一度覗かせていただいた事がありました。もう一度ゆっくり拝読したいと思います。なんでんかんでん掲示板への投稿の「ルソン島での私の戦跡」「三ヶ根山での慰霊祭」も拝見しました。毎年慰霊祭に行っておられるのですね。本当にご苦労様でございます。86歳だと、お聞きしました。どうぞお身体大切にご自愛くださいませ。

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Re: 工兵学校跡地へ行ってきました。
山本夏樹 2007/05/29 09:49:48
上杉様
返信遅れまして、失礼しました。学校跡地に行かれたとの由。お役に立てて嬉しいかぎりです。八柱で演習されたのですね。私が生まれる前、家族は八柱の自衛隊官舎に住んでいたそうです。父は復員してから勤務していた神戸製鋼に復職しようとしましたが、神戸も爆撃されていてそれが叶わず、やむなく宇治市にある自衛隊に入り、その後部隊ごと松戸に転属になったそうです。
松戸に行くことが決まった時、父は工兵学校のことを思い出したそうです。

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工兵学校跡地へ行ってきました。
上杉俊直 2007/05/26 15:43:13
山本夏樹様
今日は松戸工兵学校跡地がどんなになっているだろうかと、出か
けてみました。大部分は聖徳大学やマンションとなっていましたが、工兵学校の正門、歩哨の立っていた小屋は残っていました。
懐かしかったです。
帰りは名物だった地獄坂を通って帰りました。

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工兵学校跡地への行く道ありがとうございました
上杉俊直 2007/05/25 16:12:44
山本夏樹様

工兵学校跡地への行く道をお教えいただいて、ありがとうございます。
私は取手に住んでいますので、早速行ってみます。

お父様は技術将校だったそうですね。私は工兵の将校、よく境遇が似ていますね。
松戸の工兵学校にいたときは、毎日のように八柱まで演習で歩きましたが、いも畑だけは良く憶えております。

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Re: 工兵学校の消息をありがとうございました
山本夏樹 2007/05/25 10:16:48
ご返信ありがとうございます。工兵学校跡地への行き方を申し上げます。JR松戸駅下車。裏にあるイトウヨーカ堂に入りエレベーターで五階だと思いますが、そこで下りて外に出ると公園があります。そこが学校跡地です。戦後しばらく千葉大の工学部があったみたいです。なかなか素晴らしい公園です。記念碑もあります。私の亡父のことですが、結局、技術将校となり、原隊をはなれ昭和19年10月宇品からシンガポールに行き、中継地のサイゴンにつくまで半数の輸送船が劇地されたそうで。そこで輸送船の修理に携わり終戦。昭和22年の6月まで強制労働に従事。多くの仲間が衰弱死したそうです。平成5年父母とシンガポールに行き日本人墓地に参りました。

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工兵学校の消息をありがとうございました
上杉俊直 2007/05/24 08:43:44
山本直樹様
メールをありがとうございますした。
私は大正10年生まれ、山本さんのお父様とは似たような歳ですね。

私が工兵学校にいたときはよくこの地獄坂を上下して、江戸川に演習にいきました。江戸川では鉄舟を漕ぐ練習や橋を架ける演習をやっていたのです。
地獄坂と聞いて懐かしかったです。
工兵学校跡地は公園になっているそうですね。お知らせいただいて有難うございました。

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工兵学校
山本夏樹 2007/05/22 11:24:03
初めてメールを出します。松戸の工兵学校で検索していたらこのサイトに出会いました。私は45歳で東京に暮らしています。父はすでに他界しましたが、大正11年生まれで、京都の工兵第53連隊に入隊したそうです。工兵将校になるべく幹部候補生試験を受けることを勧められたそうです。合格すれば松戸の工兵学校に行くことになる。先輩から聴くと「あそこは地獄坂があって…」と言われたそうです。私は松戸に近くで生まれたので、工兵学校跡地の公園に何度も生きました。門と衛兵所がまだ残っていおり、大きなヒマラヤスギが何本もあり、憩いの場所となっています。そうとう勾配のきつい地獄坂もありました。休日、外出するときは極楽坂で、帰営するときは地獄坂というわけですね。

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三浦義幸様ありがとうぎざいます
上杉俊直 2007/05/20 21:40:55
三浦義幸様、上杉俊直86歳でございます。
お父様はルソン島で外務省つけの通信係りをやっておられたようですね。
部下を連れてのバギオへの転進で3名しか生きていなかったようで、私も似たような局面にいましたので良くわかります。

「山下大将からの日本大本営への要請は兵員補給の話しばかりだったとのこと」これも良くわかります。フイリッピン全島の指揮官である14方面軍司令官としては当然のお仕事です。

しかし何十万軍隊の指揮官が一兵隊の不行跡を咎められ銃殺を命じられることなどはないと思います。


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父親が、フィリピン、マニラから、バギオの逃避行の語り。
三浦義幸 2007/05/20 03:15:47
もっと、話を聞いておけばと思っても、父親の苦労話は、どこかの知らない大人の話の横で聞くだけで、子どもには、判らなかった。外務省付けで、逓信係での、マニラ行きと聞いています。もう、帰られない覚悟と聞いてます。山下大将の日本への電文は、いつも補給の要請ばかりであったと。 120名の部下を連れての、バギオへの転進は、3人しか生き残れない、過酷な話ばかりでした。 トランクに日本円の持ち出しも、火をおこす火種しかならなかった。鶏を確保した、兵隊を、上官が横取りしたいために、銃殺の命令を出されて、同じ日本人同士で、何故銃殺何ですかと、止めに入った事も、話が出ていました。

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角屋の紅葉
kenken 2006/12/06 19:31:03
ナオさん こんばんは 
日が沈むとさすがに寒くなりますが、昼間は凄い暑さ(?)ですよ。「これが12月かよ」
これも異常気象でしょうか。
ドウダンツツジの生垣とモミジの紅葉が旨くマッチしていますね。
ありがとうございました。

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ドウダンツツジ
kenken 2006/12/04 20:41:12
こんばんは
寒くなりましたね。12月にはいって急速に寒さが厳しくなり、こちらのほうは紅葉も終わったようです。
きれいなドウダンツツジをありがとうございました。
短い秋が終わり、いろいろ本格的な冬の到来。
寒さはもとよりいろんな意味で、身を引き締めて・・・という言葉を文字通り、実感します。
向寒の折、ご自愛ください

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Kenkenさんこんにちは
ナオさん 2006/11/23 13:35:58
kenkenさん、いつもお便りをいただきありがとうございます。
私も86歳、周りから叱られながら自転車であちこち出歩いております。

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戸頭の紅葉
kenken 2006/11/22 22:02:14
こんばんは

戸頭という地名ははじめて知りました。
取手の西に位置するようですね。
5kmも自転車ですか。
事故には充分気をつけて頂くようお願いします。
紅葉の進んでいるようですね。

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古利根川の秋
kenken 2006/11/17 09:52:47
おはようございます。
古利根川の秋の風景ありがとうございます。
「写真はその人柄を映す」とか。
コメントを読ませてもらっていたら、この言葉を思い出しました。四季の中でいろんな人生を感じさせるのは秋が一番。
改めて感じました。

向寒の折、くれぐれもご自愛ください。

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ご無沙汰しております
ナオさん 2006/11/04 13:11:49
Kenkenさん、お便りいただいてありがとうございます。
ご無沙汰しております。
車を持たない私は自転車で近郊をうろうろ・・花を探し廻っております。

大分県の牧の戸へ紅葉狩りにお出でになったとか、さぞ綺麗だったでしょう。
私も近い中に電車で紅葉見にと袋田の滝か成田山を予定しております。
帰ったらkenkeuさんのところへお持ち出来たらと思っております。

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