兄夫婦が飼っているウサギに、私一人だけ警戒される。
「撫でて大丈夫だよ」といわれ、気乗りしないが断るわけにいかず、し
かたなく無心に手を伸ばしたときのことだが。
「まったく関心を示してこない者から手が伸びてくる恐怖」を察したの
だろう。「フッ!」とこっちに顔向けて手足を張るのである。「こんな
ことは初めてだ」といわれた。
ぶっちゃけ、生き物を人間の都合のいいように利用しているという意味
において、虚勢してペットにしようが、解体して肉にしようが、「行
い」とやらのレベルに何の違いも見出せないからで、愛玩ペットを見る
眼とスーパーの店先の肉を見る眼と変わらないのだから仕方ない。人間
以外なんとも思っちゃいないという哲学から、むしろそういう反応のほ
うが付き合いやすい。
そうでなくてはいけない。ぜひそうすべきだぜ。
人に近づきすぎる無用心な鳩やカラスや猫を見ると、「おまえら滅びる
ぞ」と不安になる。
人間は自分勝手というが、人間ゆえにそれは当たり前で、「自分勝手な
人間に滅ぼされる可愛そうな動物」という考え方がおかしいと思う。
「人間のための環境が壊れるのを防ぐために動植物を保全する」とい
う、あくまで人間中心を貫いた上での保護活動というものにはまったく
賛同しますが。なぜなら人間だから。
自己中心も究極貫けば、自分の為にも他者をいたわるという、そういう
ところにいきつくんじゃないか?
ダメなのは「先を考えない短絡的な自己中」だけだろう。
マルクスは「真の共産は資本主義のあとにやってくる」といったそうだ
が、人間のモチベを高めて動かす「ウラ」なしに、性善説ベースで無理
やり運転しようとしたこれまでの共産が皆失敗したのは、全くそのとお
りだからか、などとも思う。
人間を動かす原動力を理解し飲み込んだ上での環境保全、福祉でない
と、今の株主万歳資本主義から前進することもなんともならんだろう
よ。
私は先々まで考え抜かれた、「自分が大事にされたい故に他人を大事に
する」という基本ロジックはけっこういいんじゃないかとおもうのです
ね。(ミエミエな下心、という程度のレベルじゃしょうがないけど。)
昔と違って生き物に対する接し方にもそのへんを適用してるので、家族
のような接し方(無償の愛?)しかされてこないペットウサギには、
「こいつは何の利害も見出せないな」と考える私は警戒されるが、その
辺を歩いてるネコからは逃げられることはなくなった。こちとら害意も
ないので、ネコのほうが察しが良かったのだろう。むこうもこっちをウ
シか何かのように思っている。
小さい頃は、ペットの鳥を惨殺された恨み※から、ネコには家族の仇の
ような眼を向けていて、小学時代は迫害しまくり、怨念を察知されて逃
げられまくっていましたが、今はそれもふっきれました。もはやどうで
もいい。鳥が人間の家族なわけないだろう。妄想ファミリー脳はやめに
したい。
※「飼っていた鳥の生首」の思い出を思うとさすがに気分はドス黒くな
りますけどね。小学生の小遣いだからオスのウズラでしたが。だがその
感情は所持品を侵害された悔しさに過ぎないんじゃないかな。経験の少
ない未発達な小学生の子供に、オトナレベルの家族愛は理解しきれるも
のではない。
今なら多分中華料理でウズラ出てきても食える。こうしたことはまさに
人間のご都合次第だなあ?(複雑な顔)