いよいよ擬態語……には、ニギニギ(握る)・フックラ(膨れる)・デップリ(デブ)・ユラリ(揺らす)・ウネウネ(畝る)・クネクネ(くねる)・ノロノロ(のろい)・ブラリ(ぶら下がる)など出処進退が窺えるもの(後のものほど実は逆ではないかとも思えるのだが)から〜のたり・ひょっこり・ぴったり・こちょこちょ・ぐでんぐでん・へろへろなど (P_^;)には見当もつかないものや、ザワザワ・ビショビショ・ギユッ・バタンキューなど擬音語との境界線上にある(すると擬音と擬態は境界を接しているのか)ようなものまである。チンチロリンのカックンなどは、明らかな混合体だろう。ひょっとして、音のリズムや旋律を「擬態」しているのかもしれない。
擬音も擬態もその基本的仕組みは「模写」だろう。音の方は単純といえば単純と一応\(・_\) (/_・)/コッチニオイトイテ、
擬態…物理的な有様を「言葉」に模写するとはどういうことなのか。ポックリ逝くの「ポックリ」という擬態語は何を模写してどう擬態しているのやら。やおら話が哲学的心理学(心理学的哲学かな)めいてくる。その点では顔文字は擬態だと言っても、かなりなへそ曲がりの方でも納得されるのではないだろうか。顔文字と普通の文字との大きな違いはそういう辺りに見出すことができる。
擬態語の方が奥が深いから顔文字も、というわけではない。擬態ということにピッタリきっちり嵌まりすぎているから、考える余地が殆ど無いのだ。
いちおう単純な擬音語といえど、優れた表現者にかかれば立派な芸術にもなる。例えば宮沢賢治の詩に見られる方言を擬音したエクリチュールからは(音でしか表せないはずの)訛さえ感じられる。そして、その擬音語はエクリチュール全体と相俟って郷土色豊かな交響楽を奏でているようだ。
この板の終わりに極上の擬態語の例をあげておこう。文脈が大切だから、比較的長い引用の末尾が「擬態語」である(まさか分らない人はいないだろうが)。
なにを擬態しているのかは書いてある通り明白だが、その被擬態も含めた全体によって更に擬態されていることがらは、読者それぞれのことがらということになるだろう。
*原テクストでは旧かな漢字や当て字が使われているが、ここでは引っかからずにスンナリ読まれるために、できる限り原文の雰囲気を損なわない範囲で現代語表記に直した。
幾時代かがありまして
茶色い戦争ありました
幾時代かがありまして
冬は疾風吹きました
幾時代かがありまして
今夜ここでの一と盛り
今夜ここでの一と盛り
サーカス小屋は高い梁
そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ
頭倒さに手を垂れて
汚れ木綿の屋根のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
中原中也<サーカス>