住所さま
>日頃の生活では自分の理想を追い、宗教的には他力の信心って、かなり器用じゃないと無理だと思うのです。
それでは「宗教的には他力の信心」のひとは日頃の生活はどうやっているのが良いのかが疑問になるのですが・・・・
「このように」という「理想」は無いのでしょうか?
>>自分が受けて嫌なことは他人にしないようにする
>時に娘を放牧状態で育てましたが、結局、モンスターを1匹生み出しただけでしたよ。
私は子供を育てたことが無いのでなんともいえないのですが・・・
単純に「放牧状態」が良いとか悪いとか言えるほど簡単なものではないのではないかと思います。
ちなみに
>自分が受けて嫌なことは他人にしないようにする
この言葉は三浦綾子の本からパクってきました。
>ある人間の理想が、周りにとっては迷惑千万というのはよくあることです。
そのとおりですね。
私は自分の考えが押し付けにならないように気をつけるようにはしているのですが、なかなか思うようにはいきません・・・
不愉快にさせてしまったときは素直に「すいませんでした」と謝るようにしています。
>そんな歳に見られたのかと、席を譲られた年寄がガッカリすることもあるわけですし。
そんなときのために私は席を譲るときは「失礼とは思いますが」と言うようにしています。
>良いことをしている「つもり」、悪いことをしていない「つもり」。偽善と言われればそれまでだけれど、それでも、このケースでは、偽善でもやらないよりはマシ。
自分の行動が本当にその人のためになる良いことかそれとも悪いことか神ならぬ自分ではわかりません。
けれども
世間で良いとされていること。自分で良いと思うことを他人にしてあげたい。
もしも喜んでもらえたら自分が嬉しい。
喜んでもらえなかったら、それも有ることと思い、自分に反省すべきことが無かったか考えるようにしています。
> 自分の判断なり自分の行動なりを、その程度のものとして受け止められるようにならないと、他力の信心をいただくのは難しいと思うのです。
私はこんな考えですがどうでしょうか?
釈名無さま
>まず自分と云う存在が居て、次に教えて下さる親御さんや先生が居て、さらに乗るべきバスが走って居て、もっと云えば席が少なくなるほどエキストラが居て、最後に譲られるべきお年寄りが居る、、、等等まだまだあるかも知れませんが条件が揃いに揃った上のことで、「 バスでお年寄りに席を譲る 」人間になれるのではないでしょうか。
>そうした条件はどうやって揃ったのか?と考えますと、何や知らんけど考えもつかんような大きなもんがあるんかなぁと私メは勝手に思ってます。
>それが他力だの阿弥陀様だのと結論づけることは私メにはできませんけどね。
本来の仏教からは外れますが
>すべては偶然ではない
>南米ペルーで発見された古文書はそう教えてくれる。
こんな言葉が
「聖なる予言」ジェームス・レッドフィールド、山川紘矢+山川亜希子=訳
に書かれています。
わたしなぞは無理やり阿弥陀様に結論づけちゃいます
異端でしょうけど・・・